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日々響く日々

エスペラントの友も去る

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エスペラントの友も去る

卒業するのは四年生だけではない。
本科ではない学生もここを去る。

ここに来て最初に仲良くなったのは
エスペラント博物館に出入りしていた学生三人。
ウヌーア、フーシーフォン、ブリーコの三人。
彼らは本科に編入するから五年は一緒だよと言った。
でも三年で彼らはここを去ることになった。
フーシーフォンとブリーコは学校の先生に。
ウヌーアは地元の大学に編入。

フーシーフォンのことは最初気遣いくんと呼んでいた。
めちゃくちゃ気遣いをしてくれるからだ。
いつも明るくて優しいフーシーフォンだったけど、
最後にうちでお酒を飲んだとき、彼の意外な家庭環境を知った。
フーシーフォンの両親は離婚しているらしい。
父親のことは嫌いで口も聞かないらしいし、
働きに出ている母親とも年に二回しか会えないらしい。
母親と移り住んだ村では別の村から来たということでいじめられ
嫌な思いもたくさんしてきたという。
だから自分は早く独立して、少しでも都会に住みたいんだと言った。
その言葉通り、村ではなく町の学校で歴史の先生として
一人で暮らしている。
いつも夏休みや冬休みはものすごく働いていた。
家庭事情も関係していたんだろう。
それでもいつも人に気前よくおごろうとする。

一緒に抗日ドラマや映画の撮影所行ったときのこともなつかしい。

拷問器具とか見て帰りにはすっかり欝になってしまったけど、
そのときフーシーフォンが
「戦争は人間の愚かさが生むもので国は関係ない。
わたしたちはともだちだ」
と言ってくれた言葉が忘れられない。

ブリーコは朗読が得意で、わたしのちゃいな語の勉強のために
朗読したものを録音してくれた。
わたしのエスペラント紙芝居の同時通訳もしてくれて
一緒に舞台に立ったこともある。

言語が好きなブリーコはフーシーフォンと一緒に
わたしの選択授業も受けてたし、
ポジさんのポーランド語の授業にも聴講に来てた。
大学院に行くことはできなかったけれど、
ブリーコはきっといい先生になる。
わたしにちゃいな語を教えたときもすごくいい先生だった。
がんばってほしい。


ウヌーアに初めて会った時、
高校時代仲が良かったクラスメイトに似てると思った。
仲良くなる予感はしていた。

年下だけどまるでオカンのように世話焼きで、
ベトナムにみんなで行ったときも、わたしやポジさんの世話を焼いた。
二人でベトナムの海でビールを飲んだのは最後の思い出作りになった。


彼女はエスペラントをやめる。
一番がんばっていた彼女だったけど、
博物館のエスペラント活動でもう嫌になったんだろう。
もったいないとは思うけど、これからは専門の英語をがんばるという。

それでもわたしたちを結びつけたのはエスペラントだから、
最後にわたしは彼女に言った。
「わたしはドイツに一人の大切な友人がいて、
彼女とメールのやりとりを続けてきたから
エスペラントを続けてきた。
一人の大切な友達のためにエスペラントをやってもいいじゃない」


彼女が去る日、朝七時に正門まで彼女を見送った。
わたしが作ったエスペラント絵本をプレゼントした。
最後はやはり泣いてしまった。
彼女は最後までわたしのことを心配していた。
生活のこと、今後の仕事のこと、住処のこと・・・。

ĝis!(またね)と言っていつものように別れる彼女。
わたしの背中を押して去っていった。

ウヌーア。
エスペラント語で第一とか一番って意味。
自分の名前は傲慢だと恥じていたけど、ふさわしい名前だったと思う。
彼女は一番エスペラント語をがんばっていたし、
ここでわたしの一番のエスペラントの友だった。

偶然にもわたしが昔書いた大長編小説の主人公の
母親の真の名と名前が同じだったウヌーア。
あの小説の母親とはちがい、温かな心をもった懐の深いオカンだった。

ウヌーア、フーシーフォン、ブリーコ
今までありがとう。
Koran dankon, ĝis revido!




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コメント

1. 無題

モンゴル、フブスグル湖(モンゴル北部)へ行ってました。
今年は寒波が襲来して採集成果は皆無です。
但し、これまでに無い危険な体験をしてきました。
また、お会いした時にお話しします。

日々、出会いを繰り返しながら、人との良い体験をされていて感心します。
世界中の友をつくってください。
応援してますよ。

Re:無題

危険な体験のお話ぜひうかがいたいものです。できることならまたお会いしたいです。

プロフィール

HN:
倫子
性別:
非公開

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