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日々響く日々

人生に何を問われているか

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人生に何を問われているか

久しぶりの実家はさらに荒れていた。
毎日たいへんだったんだろう。

それなのに時々しかメールをしなかった。
返事が返ってこないから。
でも必死にがんばって生きている父とりんたろうに
「元気ですか?」はなかったと思う。

愛犬りんたろうは今日で18才。
冬休みのときよりさらに老いていた。
老老介護の現実。それは人と動物でも精神的に過酷。
りんたろうが生きていてくれるだけで奇跡。
あんなに自分勝手だった犬が私のために、父のために
みんなの祈りで生きていてくれてる気がする。
父もまた「私が帰るまで生きててほしい」と
祈りながら世話してくれてたんだろう。

私は?

自分のためじゃなく誰かのために
何をしてきたんだろう。

安心出来る場所、自分の絶対的な味方、
最後に戻ることが出来る場所。
それが私にとって理想の家族で家庭だった。

自分がほしかったものを自分は与えようとしていただろうか。

荒れ果てていく実家と
崩壊した夫婦生活。

すべては自分に問題があった。

飛行機の中でずっと読んでた本
「生きていくことの意味」
私が卒論のテーマにもしたトランスパーソナル心理学に関する本。

今起きている現実、自分が抱える問題、
そこからこの人生は私に何を問いかけているのか?

紙芝居イベントの問題。
アコーディオンカフェの開店を手伝ったときと似てる。
勝手に一人で苦しんで、それを伝えることもなく、
どうして苦しいのをわかってくれないのかなんて逆恨みして、悪者にして
結局向き合わないで現実を歪めたんじゃないのか?
もう同じことはしたくない。誰も悪者なんていない。

夫のことも傷つけた。
自分がしてほしいことを要求するばかりで
相手がしてほしいことを与えようとしていなかった。
変わりたい! そう思い、
空港まで、今度こそちゃんと話をしようとしたけれど
向こうの怒りと攻撃と批判に耐えられず、黙ってただ話を聞くこと
受け入れること、彼の気持ちにただ寄り添うことができなかった。

今まで大切だった人が急に敵意を見せたとき
私はいつも逃げてばかりいたんじゃないか。

なぜそうなったのか、相手の立場に立とうともせず、
ただ被害者になっていたんじゃないのか。

まさにハリネズミのジレンマで
相手の体温を奪おうと近づきすぎるほど針が深く刺さるように
痛めつけたまま別れた大切な友人たち。
私は本当のその人を歪めずきちんと見ていたか?

そんなとき、一番に思い出すのは高校の時の親友のこと。
私は思い込みで彼女を敵視し攻撃し憎んだ。
あんなに大好きだったのに。
彼女はいつも誤解だと言った。話し合おうと必死だった。
私の妄想で彼女を苦しめた。
そして疎遠になった。でも住所も連絡先も知っていた。
どうして連絡しなかったのか。

去年彼女は亡くなった。

今日帰ったらちょうどそのことを知らせる手紙が共通の友人からきていた。

彼女は最後まで私にわかってもらおうと必死だった。
私はその時わからなかった。

彼女が私に最後にプレゼントした手作りキャンドルと
最後の手紙を今も持っている。

そこには彼女が辛い時に何度も読み返すというあいだみつをの詩があった。

「憂」

むかしの人の詩にありました

君看よ、双眼の色
語らざれば、憂い無きに似たり

憂い…が無いのではありません
悲しみ…が無いのでもありません
語らない、だけなんです
語れないほど、深い憂いーだからです
語れないほど、重い悲しみーだからです
人にいくら説明したって
まったくわかってもらえないから
語ることをやめて
じっと、こらえているんです
文字にも、ことばにも
到底表せない
深い憂いーを
重い悲しみーを

心の底深く、ずっしり沈めて
じっと黙っているから
眼が澄んでくるのです

澄んだ眼の底にある
深い憂いのわかる人間になろう
重い悲しみの見える眼を持とう

君看よ、双眼の色
語らざれば、憂い無きに似たり
語らぜれば、憂い無きに似たり

…………………… ……………………

…………………… ……………………

辛いのは自分だけじゃない。
自分の辛さを人に訴えるばかりで
私はどれだけ人の辛さに目を向けてきたか。

身近な人に自分をただただ受けれてくれと暴力的に要求して
自分はどれだけその人たちをただ肯定し受け入れてこれたのか。

それでもそばにいてくれた。
苦しみながらもずっといてくれた。
私が今できることは何なんだろうか。

ここ数年自分が「やりたいこと」が見えなくなっていた。
それまでやりたかったこと、なりたかったものが
本当にそうだったのかどうかよくわからなくなっていた。

それそのものが嫌いになったというよりは
「自分が」「自分が」という生き方に
自分自身が一番うんざりしていたんじゃないだろうか。

それは本来自分が望んだものとはちがっていたんじゃないだろうか。

自分のために相手が何をしてくれるかじゃなく
相手のために何ができるか、
そしてその時に本当に自分というのを捨てて
ただ純粋に相手の側に立てるのか。

まずは今いる家で
どんどん不要なものを捨てていこうと思う。
自分の物から。

父には父の理由で捨てたくないというのがあるのだろうから
一つ一つ確認しよう。

自分のことばかりだった。

このまま父を孤独に死なせることだけはしたくない。

まずは今できることを。
少しずつ。

そして実家にいる夫には今は連絡しないでおこう。
今の彼にとって私は心を乱すだけの存在だろう。

自分が改心したから許せというのはそれこそ自分主体だろう。
大事なのは、自分のことを許せない相手の気持ちを苦しみを
そのまま受け入れることだと思う。

高校の時の亡くなった親友は傷つきながらも私と話をしようとしてくれた。
私はそれができなかった。
そしてもう二度と彼女とは話もできなくなった。

夫も何度も話し合いをしてくれた。
でも私は私の価値観や方法で理解しようとしていたから
相手が何を言っているのか本当にわからなかった。
やはりそこでも「自分」だったのだ。
自分が理解できる範囲でしか理解しようとはしない。
自分の常識では理解できない部分も含めて受け入れることができなかった。

相手の気持ちに寄り添うにはまず「自分」を消さねばならない。

きっとそれがわたしにとっての大きな課題。

自分が何をやりたいか、相手にどうしてもらいたいか、ではなく、
誰かとの関わりの中で
自分に何ができるのか、相手がどうあろうとしているか、を考える。

それが相手を尊重しているということなんだろう。

相手を崇め奉ることが尊重ではない。
相手の言いなりになるのもちがう。

気持ちを寄り添わせること。

私はそれを相手にばかり求めていたけれど
私がそれをしなければ。

今、自分がやりたことが何かあるとするならば、
たった一つ。

今度こそ人を尊重できる人間になりたい。

自分に何ができるのか
この人生に何を問われているか

夏休みは始まったばかり

不要なものを捨てながら
毎日それを考えて
自分自身と対話する
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